これは私が営業にはまったハナシです。
サラリーマン、営業マンは日々時間に追われてて忙しいと思う。
時間が無いという人は読まないで、目の前に積みあがった自分のタスクの一つでもやっつけて欲しい。
ブログをやる理由
私の営業人生をブログに乗せて発信してるので、あなたの営業がおもしろくなる足しになればという想い。
筆者の考え
・営業は辛い仕事と認識が一般的
・けど取り組み方でおもしろくできる
・営業が面白くなると人生が好転する
自分の経験を価値としてあなたに提供できる手段がブログなんです。
そしてその目的の為にいまは次の2つの内容をこのブログで発信します。
・メーカー営業の働き方や悩みの改善に役に立つ内容
その改善方法として転職にフォーカスした記事を書いています。
⇒ 営業の働き方・転職
・筆者が営業として働く中で、出会ったお勧めしたいアイテムを紹介。
⇒ 営業グッズの紹介記事
そしてブログをぼんじんのサラリーマンでも稼げることを証明したい。
そのストーリーに少しでも共感して頂けたら嬉しい。
本業は日経の大手重工系メーカ産業機器のメーカー営業をやっています。
日曜日の夜が超憂鬱なぼんじん営業マンでしたが、今ではハツラツと本業やこのブログ・twitterにも取り組んでおります。
そんな私が営業に出会うまでの人生を少しプレイバック。
やる気のない大学生時代
目標無くただダラダラ過ごすどうしようもない学生生活
深夜までアルバイトと、麻雀、酒、タバコそんな生活の、どうしようもない大学生。
アルバイトに明け暮れ、バイト先の人たちと朝方までコンビニの前で喋り倒す。
ただ、大学の友人たちの勉強を頑張ったり、ゼミに励んでいる姿は羨ましかった。
そして意外とストイックな一面もある。
高校時代の部活動はその高校で一番厳しいという理由で入部。アルバイトはその地域でかなり多忙と評判のレストランで働いた。
要するに昔の自分の考えはこうだ。
・人よりもできる人間でありたい
・自分じゃ自分に厳しくできない
・なら厳しい環境に身を置けばいい
その思いをぶつけようと一念発起したのが「大学のゼミ」だった。
私の通った大学ではゼミの「入ゼミ面接」なるものがあった。
私が入ろうとしたゼミは、優秀な生徒が多いと噂のゼミ。
ここから、学生生活が変わっていくな。とそんな期待感に少しだけワクワクしていた。
が、そんな気持ちとは裏腹に、全く面接に通らなかったのだ。
ぶっちゃけ強い熱意も無かったが、実は私は致命的に面接が苦手だった。
中学の内申点は44/45点だったし、生徒会にも入り、部活動もキャプテン兼部長をやっていた。
心配なく面接にとおるだろうという周りの前評判をあっさりと裏切り落ちた。
とにかく、人前で人と喋る行為が不得意。
私の精神面がぶれぶれで、かつ喋りが苦手という事が伝わったかと思います・・・
まとめるとこんな大学生だった。
- 酒、タバコ、麻雀の生活
- 居心地のいい環境から抜け出さない
- 人前で喋るのが不得意(好きじゃない)
そして、就職活動を始めることとなった。
就職活動時代
就職活動で何が怖かったかってもちろん「面接」だ。
苦手意識しかないものをどう克服するか?
ひたすら練習した。
喋る練習だ。暗記して喋るのは意味ない!と言われると思うが、そんなこと言っている場合じゃない。
なんとかまともにしゃべれる状態で面接に行かないといけない。
バカみたいだが、喋る内容をホントに丸暗記した。
ボイスレコーダーの予約して聞きながら全て丸暗記しました。
そうすると、当日も余裕をもって面接に臨めるようになった。
喋って、会話が成立すると、面接は歯車がかみ合いうまく行くようになった。
人との会話は不得意だったけと面白かった。
自分で考え、行動し、何をしゃべるか?作戦を立てていき、それが合否という結果となる。
これがおもしろかった。
就活の最後の方は、普通の受け答え+雑談も交えられるようになり、選考に通るようになった。
そうして応募50,60社したあたりで、東証一部上場の大手日系メーカーから内定をもらう。
この時は特に何の考えもこの内定が出た会社へ入社。
「こんないい企業に入れた自分スゲー」と有頂天で思い出すのも恥ずかしい状態。
自ら考えて動き、自らの行動で成果を獲得することのおもしろさを味わった就職活動だった。
若手社会人時代
自分ならこの同僚たちの中で抜きんでる事が出来るな、と高をくくっていた。
だけど、実際に仕事はそんなに甘くない。
私は世間一般の凡庸な人間。
なんなら、その辺の人よりもすこし頑固。
非協力的な工場の設計
メーカー営業の仕事は工場の設計や納期管理をする生産管理部門に動いてもらってなんぼ。
古い会社特有だが、工場の設計担当者から若手営業マンへのあたりは激しかった。
「何にも知らない若い営業マンが何を言ってんだ?」
という雰囲気が電話越しにガンガン伝わってきていた。
・電話、メールの応答はかなり悪く
・質問してもまともに教えてくれない
自分の仕事が前に進んでいかない。そんな感覚があった。
学生のアルバイトの様に、「聞けばすぐ教えてくれる」そんな甘い世界じゃないと理解をした。
日頃から何かの折に会話を増やし、工場にいったら顔を突き合わせて会話、冗談を言うなど。
やはり、人間的な付き合いがすごく大切だった。
関係づくりの難しさから、調整力や根回しの必要性を知った。
人に動いてもらうためのスキル=調整力。メーカー営業は必須。
お客さんから名指しでの指導
ある時私の担当するお客さんで製品不具合が起き、客先への不具合説明のため訪問することとなった。
そして、この訪問の後に、私は名指しでお客さんから注意を受けた。
「ぜんぜん事情を把握していない営業マンがのこのこやってきて、クレームなのにとりあえず謝っとけばいいみたいな雰囲気はなんだ?」
私の上司にそんな連絡が入った。
私の対応の対応から誠意や、申し訳なさが伝わらなかったようだ。
いまなら分かるが、原因がわからない段階でも、まずは迷惑をかけた事を謝罪してから進めていくべき。
実は訪問前に上司から言われていた。
「白黒ついてない案件。うちの責任じゃない可能性もある。ただ謝ればいいってことじゃないから。その点を踏まえたうえで説明するように。」と。
これを「謝ったら自社の分が悪くなる」とはき違えてこのような事態になった。
クレーム対応は繊細な事案。相手の気持ちにしっかりと軸足を置いて、相手目線での対話が大切だと身に染みた。
上司には説教される日々
会議室に呼び出されて、仕事の進め方や考え方に関して指摘を受けた。
だいたい、私の未熟さでお客さんへ迷惑をかけそうなとき、もしくはかけた時に呼びだされた。
今考えると当たり前の話も多かった。たとえば、お客さんの工場内で歩きながら電話をする。など。
一般的に見れば、最優先事項である内容のメール問い合わせだが、反応せず埋もれ対応が後手に回ったりなど。
恥ずかしい限り。
当時の上司は気を使って、人前では指摘をしなかった。
私は指摘を受けるたびにハッとすると同時に、自分の未熟さイラだちを覚えた。
営業として、人としての自立をしていかないといけないと何度も何度も奮起した。
調子の乗っていた鼻っ柱をポッキリとおられることになったわけだが、学びも多かった。
- メーカー営業は調整スキルが必須
- クレーム事案の難しさ
- 責任感の無さを痛感
自分の「不出来さ」を痛いほど知った若手時代でした。
先輩から営業の考え方を学ぶ
入社して数年経った時に営業の他の課(グループ)へ異動した。
しかし、そのグループの仕事は、営業は誰もやりがたらない仕事だったのを後で聞いた。
ここでの仕事が後に私を大きく成長させた。
そして私が営業を学んだの人は、いつもひょうひょうとしていて、普段何しているか見えにくい雰囲気。
その部署の仕事はいわゆる「流れ品」は存在しない。
自分で仕掛けて取った仕事のみが数字として積みあがる仕組みとなっている。
ある案件。
取れたらでかかった。私の半期の予算を1案件で賄うほどの大口。
見積依頼を受けてから数日後、客先を単独訪問訪問し、要求仕様や受注に必要な情報をヒヤリング。
持ち帰り、工場へ見積依頼をかける。
回答がくるが、箸にも棒にもかからない金額と仕様。
「これじゃ取れないよな。。。」
頭を悩ませてあきらめかけていた時、先輩が声をかけてくれた。
「この案件取りに行こう。工場説得しに行こうよ。」
実現可能なアイデア出して、工場を説得して、やらせるんだ。と言う。
後日、工場に行き、設計と打合せ。内容は客先に提案可能なところまでまとまった。
技術を説得する論理的な話術や推進力、既存の知識にとらわれない柔軟な発想を持った人だった。
「これなら、取れるんじゃないか?」高揚感は営業ならでは。
営業人生で初めて「仕事に夢中」になった瞬間だった。
そうして客先へ提案した。自信はあった。が、取れなかった。失注した。
提案内容は悪くなかった。ただ、引き合い段階で、ほぼ競合で決まっていた案件だった。
悔しさも学んだが、この経験で営業の面白さを見た。
自分で仕掛ける事でおもしろくなるんだ。
営業の仕事は自分で仕掛けていく事でおもしろくなる。
挑戦することが、営業を楽しむ秘訣だと知った。
激務と周囲の人間環境へ不安を覚える
営業の仕事の面白さを知りのめりこむようになっていく反面、慣れたタイミングで仕事量は増えた。自分の状況が変わればまた周囲の見え方も変わるもの。
激務で少しずつマヒしていく自分
おおよそ月平均60時間ほどの残業時間。
これ自体は、激務と呼ぶには「激務じゃないでしょ」と言われるかも。
ただ、ハードワークではあった。
全国出張。北は北海道。南は九州だ。毎週のように新幹線と飛行機に乗る。
おかげで私が訪問した事がない県は残り9県(大分、秋田、青森、鳥取、島根、徳島、佐賀、山口、岩手)という状態。
ある時、富山県の客先を訪問。
2月。しかも豪雪で大雪警報。新幹線は本数も減らし、速度を落として運転。
そんな中の出張。日程はずらせただろうが、上司と予定を合わせて活動もしており権限はない。
冬の日本海側の気候は強烈な荒れ模様。
客先は富山駅からローカル線に乗って数駅の場所から、タクシーで15分。
猛吹雪の中走り出すと目の前はほぼ見えない。吹雪の中かろうじて赤信号が見える。
「こんな雪深い場所まで、こないといけないのか。笑」
私の隣でお客さんと電話で話している上司は、とうに50歳超え。
「あと30年以上こんな生活を続ける。。。」
すこし現実味が無い。この会社にい続ける選択肢は肯定しきれない。
それでも「メーカー営業」の仕事はおもしろいんだよな。
ふと冷静になってしまい、自分の感覚が少しマヒしていると感じる。
出張続きのハードワークで思考停止となっている自分に気づいた
そして、仕事は100%がおもしろいという事はないが、私には残りの”面白くない部分”に納得ができなかった。
ゆっくり考えるヒマが無いと思考停止して考えなくなりますね。
営業と工場技術との深い溝
新規案件を取ってくる営業と、それを断ろうとする工場技術・品質保証部という構図だ。
この新規案件を取ってきたのは私の上司だった。
従来、会社で持っていた技術を応用させた新商品。
営業の言い分はこうだ。
「年々売上推移は横ばいだから、新商品、応用商品で新市場・新規顧客を開拓すべき。」
工場の言い分はこう。
「応用商品とは言えどやったことが無い商品。何かあった時には責任は取れない。製品品質も保証できない。」
私には未来を造ろうとする営業 vs 今にとどまり足を引っ張る工場 の構図にしか見えなかった。
工場と営業が同じベクトルを向いていない事は誰がどう見ても明らか。
また、私が営業サイドの意見に納得していたのは結果をだしていたからだ。
その営業は50歳オーバーだが、過去その部署の新商品を立ち上げ何億円もの売り上げを作り、部署の屋台骨作った人。
結果的に、その人は辞めていった。
ずっと第一線を貼り続けてきたプロフェッショナル。判断もスピーディーだ。
そして、会社と自分の考えが大きく離れていることには気づいていた。
「この会社にいたら、いつか自分も牙を抜かれ、自分で狩りの出来ない存在となってしまう。」
危機感は私を転職活動に駆り立てるには十分だった。
私の成長のステージは別の会社にあると信じて退職する決意を決めた。
転職をすることに
仕事をしながら転職活動をやれるのが営業の良い所だ。
就活と同様自己分析や、今まで仕事でやってきたことの棚卸しした。
「俺って意外と営業としていろいろと経験しているんだな」
と思うと同時に、自分の成長も感じ、自信を持てた。
一つ圧倒的に変わったところがあった。面接だ。
明らかに面接官ときちんと対話が出来ていた。
私にとってコンプレックスであった喋りに少し自信を持てた経験となった。
回数をこなすほどに、磨きがかかっていった。
次第にいい感触の面接も増えた。
そして、転職活動をしていく中で出会い、第一志望としていた会社から内定をもらうことが出来た。
いまの会社の内定も営業経験があったからこそ得られたものですね。
転職を機に好転し始める人生
転職を機に変わったことはたくさんあった。
・若くやる気のある社員が多い
・仕事内容がおもしろい。
・挑戦する人にはやる場所を与えられる
・残業時間が激的に減った。
これだけでも成功と言えるかもしれないが大きく2つの経験が私を営業として成長させてくれた。
右も左も分からない中での新規開拓営業
入社当時はチーム内の編成の事情もあり、すぐに担当は渡されなかった。
とにかく暇な時間が続き、入社から2か月半ほど経った時に、ようやく渡された仕事は新規開拓だった。
リストの顧客へかたっぱしからテレアポをするといういたってシンプルな内容。
始めの頃は緊張し、手に汗握りまくりで、なんとかやっていた。
入社2か月半だから、もちろん製品知識も詳しくない。
けどお客さんには関係無い。アポが取れて、訪問するとなれば待ったなしだ。
この追い込まれた状況が、私の成長を加速させた。
慣れてくると、アポイントが取れ始めた。手帳はびっしり埋まった。
ぶっちゃけここから新規につながりそうな話はほんの数件しか得られなかった。
ただ、「自分の成長」と「会社からの評価」は入社3か月でかなりのものを得られた。
新規開拓営業の経験で成長しさらに自信をつけていった
くせ者だらけの業界の客先担当となる
当時、私の部署にはデキるベテラン営業がいた。
その人は、他の人がやりがたらない客先を多く持っていた。
くせ者が多い客先だ。
それは業界柄といった感じだが、とにかく、要求が強かったり、気が短い人、聞き分けに乏しい人が多い。
私の次の成長のステージはすぐに来た。
ベテラン営業は異動する予定だった。
その客先を全て私が引き継ぐこととなったのだ。
当時はどんな客層か?など、想像もできなかったのだから、好きも嫌いもあるわけがない。
なんせ、そのタイミングで入社してから半年も経っていないのだから。
そして担当が変わった初月に地獄を見る事となった。
・価格交渉でここぞとばかりに強気に出る客先だらけで、ぼこぼこにやられる。
・前任の凡ミスが原因で客先へ大謝りすることにもなった。
今思い返せば、よく入社半年の人間にそんなことをやらせたものだ。
だが、これこそが私の成長の法則だった。(というかこれが生き残るための道だ。)
まずは現場に入りとりあえずやってみる。これが成長の最速の形だと、過去の経験から判っていた。
担当を引き継いでから3か月ほどは本当に濃密で学びの多い期間であった。
営業の泥臭い部分を存分に体験し改めて学んだ。
これらの2つの経験はまた”営業とは何たるか”を改めて私に教えてくれた貴重な体験となった。
本業の営業の仕事は順調、、、だったが
その後も本業は順調だった。
そんな中転職して3年目になった時、世界でコロナウィルスが大流行した。
世間の様相は急変。世界的に蔓延するウィルス。
未曽有のパンデミックにウィルスに感染する不安、それから将来の生活への不安感が強くなった人も少なくないのでは。
そんな中でyoutubeやブログ、個人で稼ぐことが注目された。
家にいる時間で将来のために何かをしなきゃ、と考え簡単に始められるブログにたどり着いた人も多いはず。
かくいう私もその1人。
2020年の9月から趣味プラスアルファのお小遣い稼ぎでブログをスタートした。
まさに個の力で稼ぐ!これを実現できるのが「ブログ」という選択肢なんだと思い、その可能性にワクワクした。
また、以前から本業以外にも収入を持つこと、に興味はあった。
人生100年時代。どうにも本業のみの収入で生活をしていく人生、に現実味を感じなくなっていた。
「これだけ個人の可能性を存分に試すことが出来る世界があるのにチャレンジせずに終わっていいのか?」という思い。
・自分の実力で稼いでいけるのか試したい。
・本業の収入のみに頼る生活への不安。
この2つの想いからブログを書いている。
どれだけの成果を、いつ、出せるか分からないが、いまは地道にやっていくしかない。
まだ、私のブログ人生は始まったばかり。
またこのプロフィールの続きは皆さんと一緒に作っていく思いでブログを継続していきたい。
ここまで読んで頂いた方はありがとうございます。